講座詳細情報
申し込み締切日:2016-11-14 / 世界史 / 学内講座コード:16B1611401
王妃の肖像 ヘンリー8 世の6 人の妃たち
- 開催日
- 11月15日(火)、11月22日(火)、11月29日(火)、12月 6日(火)、12月13日(火)
- 講座回数
- 5回
- 時間
- 13:00~14:30
- 講座区分
- 後期
- 入学金
- -
- 受講料
- 8,000円
- 定員
- 50
- その他
- 7200(※料金は、神奈川大学生・卒業生等および横浜市交流協議会加盟大学在学生に適用される料金です)
- 補足
※この講座の申し込みは既に締め切りました。
講座詳細
【講座内容】
ヘンリー8世は6人もの妃を迎えた。妃たちの名前も順番も覚えるのは難しい。イギリスの子どもたちは、歴史の授業で、指をおりながら「離婚、斬首、死亡、離婚、斬首、生き残る」と教わるという。妃たちの生き方よりも、終わり方が強く印象づけられる。海の向こうのフランス王フランソワ1世は嘆息した。「律儀な男だ。いちいち結婚せずともよいものを!」18歳の若く麗しい王が、40年後、「青ひげ」(6人の妻を殺して7人目にその罪を発見させる)に成りさがろうとは誰が予想しただろうか? 妃たちの軌跡を追い、時代の様相をとらえる。
【講座スケジュール】
第1回11月15日(火) 2国の架け橋に――キャサリン・オブ・アラゴン(1484-1536)
詳細:興ってまもないチューダー王朝は成り上がり者と誹(そし)られた。新しい王朝を認めたのはスペインだけ。箔をつけようと、スペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンを皇太子アーサーの妻に迎えるも、アーサーは半年足らずで病没。それから6年後、ヘンリー8世は孤寥(こりょう)のキャサリンと華燭の典をあげた。兄の妻を密かに慕っていたのだ。しかし、女の子1人しか授からず、若い女性を妻に迎えようとする。だが、キャサリン王妃が屈の精神で抵抗したため、ヨーロッパを巻き込む争いとなる。
第2回11月22日(火) 国王と女官の禁じられた恋――アン・ブーリン(1500?-36)
詳細:ヘンリー8世は、フランス帰りのまるでフランス人のようなアン・ブーリンに一目惚れ、求愛した。しかし、「王妃にしてくれなければ」と断られる。持ちあがった前代未聞の離婚騒動。王は、王妃とアン・ブーリンの板挟みにあい、ローマ教皇庁と決別して、アンを妃にむかえる。この出来事で国の宗教はプロテスタントに変わった。アンもまた女の子1人しか生まなかった。王はアンの侍女ジェーン・シーモアに目をとめ、アンを処刑台に送った。
第3回11月29日(火) 王位後継者を生み儚(はかな)く消えた妃――ジェーン・シーモア(1509-37)
詳細:ヘンリー8世はアン・ブーリンを処刑してジェーン・シーモアを迎えた。ジェーンはすぐに懐妊したものの、産は難を極めた。侍医が「お妃さまか、お子さまか、どちらを救いましょうか?」と問うと、国王は答えた。「子だ。王妃の代わりはいくらでもいる!」王妃は待望の男の子を生み、12日後に死亡。生まれた子は後にエドワード6世となり、国家のプロテスタント化を推し進めた。
第4回12月 6日(火) 器量が悪いと離縁されたアン・オブ・クレーヴ(1515?-57)、不貞を働き処刑されたキャサリン・ハワード(1521?-40)
詳細:カトリックの大国スペインとフランスに囲まれたイギリスはプロテスタント国家に友好を求めた。ドイツの姫君アン・オブ・クレーヴに白羽の矢があてられた。画家ハンス・ホルバインがクレーヴに送られ、次々に美しい姫君の肖像画を送ってくる。王は胸をときめかせた。しかし、期待外れだった。6か月後、アンを離別し、30歳ほども下のキャサリン・ハワードを妃に迎え、「王の宝石」と呼び寵愛した。しかし、耳もとで囁く者がいた。「妃は昔の恋人とよりを戻している」。激怒した王はキャサリンを即刻、断頭台に送った。
第5回12月13日(火) 慈しみ深い母として――キャサリン・パー(1512?-48)
詳細:王家の子どもたちは、父がキャサリン・パーを妻に迎えてはじめて家庭の温かみを知る。本を著すほど教養あるキャサリン王妃は子どもたちの教育に腐心し、肥満と通風のために歩行もままならない王には、看護人のように接した。平静を装う王妃の胸には熱い想いが燃えていた。1547年、王が死去すると、キャサリンはかつての恋人と再婚。この再婚が国家を大混乱に陥れる。
ヘンリー8世は6人もの妃を迎えた。妃たちの名前も順番も覚えるのは難しい。イギリスの子どもたちは、歴史の授業で、指をおりながら「離婚、斬首、死亡、離婚、斬首、生き残る」と教わるという。妃たちの生き方よりも、終わり方が強く印象づけられる。海の向こうのフランス王フランソワ1世は嘆息した。「律儀な男だ。いちいち結婚せずともよいものを!」18歳の若く麗しい王が、40年後、「青ひげ」(6人の妻を殺して7人目にその罪を発見させる)に成りさがろうとは誰が予想しただろうか? 妃たちの軌跡を追い、時代の様相をとらえる。
【講座スケジュール】
第1回11月15日(火) 2国の架け橋に――キャサリン・オブ・アラゴン(1484-1536)
詳細:興ってまもないチューダー王朝は成り上がり者と誹(そし)られた。新しい王朝を認めたのはスペインだけ。箔をつけようと、スペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンを皇太子アーサーの妻に迎えるも、アーサーは半年足らずで病没。それから6年後、ヘンリー8世は孤寥(こりょう)のキャサリンと華燭の典をあげた。兄の妻を密かに慕っていたのだ。しかし、女の子1人しか授からず、若い女性を妻に迎えようとする。だが、キャサリン王妃が屈の精神で抵抗したため、ヨーロッパを巻き込む争いとなる。
第2回11月22日(火) 国王と女官の禁じられた恋――アン・ブーリン(1500?-36)
詳細:ヘンリー8世は、フランス帰りのまるでフランス人のようなアン・ブーリンに一目惚れ、求愛した。しかし、「王妃にしてくれなければ」と断られる。持ちあがった前代未聞の離婚騒動。王は、王妃とアン・ブーリンの板挟みにあい、ローマ教皇庁と決別して、アンを妃にむかえる。この出来事で国の宗教はプロテスタントに変わった。アンもまた女の子1人しか生まなかった。王はアンの侍女ジェーン・シーモアに目をとめ、アンを処刑台に送った。
第3回11月29日(火) 王位後継者を生み儚(はかな)く消えた妃――ジェーン・シーモア(1509-37)
詳細:ヘンリー8世はアン・ブーリンを処刑してジェーン・シーモアを迎えた。ジェーンはすぐに懐妊したものの、産は難を極めた。侍医が「お妃さまか、お子さまか、どちらを救いましょうか?」と問うと、国王は答えた。「子だ。王妃の代わりはいくらでもいる!」王妃は待望の男の子を生み、12日後に死亡。生まれた子は後にエドワード6世となり、国家のプロテスタント化を推し進めた。
第4回12月 6日(火) 器量が悪いと離縁されたアン・オブ・クレーヴ(1515?-57)、不貞を働き処刑されたキャサリン・ハワード(1521?-40)
詳細:カトリックの大国スペインとフランスに囲まれたイギリスはプロテスタント国家に友好を求めた。ドイツの姫君アン・オブ・クレーヴに白羽の矢があてられた。画家ハンス・ホルバインがクレーヴに送られ、次々に美しい姫君の肖像画を送ってくる。王は胸をときめかせた。しかし、期待外れだった。6か月後、アンを離別し、30歳ほども下のキャサリン・ハワードを妃に迎え、「王の宝石」と呼び寵愛した。しかし、耳もとで囁く者がいた。「妃は昔の恋人とよりを戻している」。激怒した王はキャサリンを即刻、断頭台に送った。
第5回12月13日(火) 慈しみ深い母として――キャサリン・パー(1512?-48)
詳細:王家の子どもたちは、父がキャサリン・パーを妻に迎えてはじめて家庭の温かみを知る。本を著すほど教養あるキャサリン王妃は子どもたちの教育に腐心し、肥満と通風のために歩行もままならない王には、看護人のように接した。平静を装う王妃の胸には熱い想いが燃えていた。1547年、王が死去すると、キャサリンはかつての恋人と再婚。この再婚が国家を大混乱に陥れる。
講師陣
名前 | 石井 美樹子 |
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肩書き | 神奈川大学名誉教授 |
プロフィール | 1974~78年英国ケンブリッジ大学大学院にて中世英文学を専攻。文学博士。ケンブリッジ大学東洋学部専任講師、静岡大学教授を経て2013年3月まで神奈川大学外国語学部教授。専門は中世・ルネサンスのイギリス文学・歴史。主要著書に『聖母のルネサンス』(岩波書店)、『エリザベス――華麗なる孤独』(中央公論新社)、『ヨーロッパの王妃』『ヨーロッパ宮廷の愛人たち』『マリー・アントワネットの宮廷画家――ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯』『マリー・アントワネット――ファッションで世界を変えた女』(以上、河出書房新社)ほか多数。 |